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斉藤 健人 - インドジャーナリズムプロジェクト
以前大学のジャーナリズムの講義の中で、イラク戦争とバクダッド陥落の記事について触れる機会がありました。その際、フセインの像が倒される様子と、それを喜ぶ市民の写真について述べられたジャーナリスト講師のコメントがとても印象的でした。
「ここには『多くのバグダッド市民がフセインの失脚を喜んでいる』と書いてあるが、多くの、とはあまりに漠然とした表現だとは思わないだろうか?」

この時から、私はジャーナリズムのあり方について少しずつ疑問を抱くようになってきました。凄惨な事実が、数字や言葉でたんたんと述べられていく。あれだけ話題に上ったチベットの虐殺や、アフリカの飢餓に関しても、解決にはまったく至っていないにもかかわらず、メディアは日々新しいニュースを追って新聞の端にすら書かれなくなる。あるいは、上記のように一見すると誤解されがちな言葉が臆面もなく紙面に綴られる。(実際に喜んでフセイン像の破壊に取り掛かった人数は、バグダッド市民全体に対して、たった500人ほどだったらしい。)それから、日本の報道事情がどれだけ偏狭で、規制にみちたものかを学んだため、一度海外のメディアのもとで学んでみたいと考えていました。ちょうど大学の夏休みが2ヶ月ほどあり、このような意識もあったため、プロジェクトアブロードのジャーナリストコースを見つけたとき、これだと思ってとんとん拍子に参加を決意しました。
東京から、デリー、ムンバイ経由で南インドのマドゥライに到着。そこから迎えの車でぼこぼこ道を3時間ほど飛ばし、シヴァカーシという片田舎のオフィスに着いたときには日も暮れて、体もくたくたでした。夜、部屋の天井でカラカラ回る扇風機を見ながら、ようやくインドにいるんだなと実感しました。
翌日から早速仕事が始まりました。8月も終わりのことだったので(外国は9月に始業式なので)他のボランティアは少なく、日本人は自分ひとりでした。

スタッフはインド人のジョエルとエリルです。ジョエルは先週結婚したてでした。彼らの元で他のボランティアとともに仕事をこなしていくのですが、それがもっぱらぶっつけ本番のものばかりでした。ガタガタのリキシャー(インド式タクシー)で取材現場まで駆けつけ、現地人の話す現地語をエリルが英語に訳し、それを僕らがノートに書きとめ、あとからまとめて記事にする、というものでした。もともと英語は得意でありませんでしたが、以外にもインド人の英語はゆっくりとしていて、ノートに書きなぐるくらいの意味は伝わりました。それでも他のボランティアたちの会話(全員英語圏)には早すぎてあまり入っていけず、もう少し勉強しとけばと後悔しました。
9月に入ると、少しずつインドでの生活にもなれはじめました。砂糖の塊のようなチャイ(ミルクティー)も、身振りで味を薄めてもらうことを覚え、5分で済むということが30分もかかるインド人のルーズさにも順応しはじめした。ほとんどの日本人がかかるという腹痛や下痢も回避し、ほぼカレーの三食もとても美味しくいただきました。やがてそれまでいたボランティアの人たちがみな帰国し、あらたにフランス人やアイルランド人がオフィスに姿を現しました。
それからもいろいろなところへ取材に行きました。理科大学の研究室、地元のコンサート、隣の県のお祭り、あるいはカバディの試合や、高校の集会などへ行き、そのたびに文化や習慣の違いに驚かされました。ひとつ気がついたことは、彼らは自分以外の人をあまり自分の固定観念に縛らないように思いました。ひとつの大学にまったく異なる州の学生が集まり、それぞれ異なった分野の才能を発揮していました。「他人が違うのは当たり前。ひとつの記事に対して、その人がどのように感じるかも、異なっていてなにもおかしくない」と、その大学の先生は述べていました。確かに、日本のメディアは、みなに同じ考えになるようにしむけすぎているのかと思えます。「自分がこう思っているのだから、相手もこう思っているはず」とみんなが考えることで、いらぬ誤解や齟齬を生むように思えます。
週末は週末で、他のボランティアたちとともにビーチや近くの街へとくりだしました。まっさらなビーチで朝から晩まで海水浴を楽しみ、真っ赤に日焼けした肌をかばいながら、夜遅くまで酒を飲んで踊ったり歌ったりしたことはなかなかよい思い出です。オフィスに帰ってからも、夕食後バルコニーに集まり、めいめいお菓子や飲み物を持参してきてトランプやゲームを楽しみました。「あいつ、私に気があるみたいなの」的な相談もされました。そして毎日のように彼らと会話していると、いつしか自然と英語がわかるようになっていました。最後のほうにはインド人のスタッフたちにも進歩を褒められ、あと一ヶ月いたら君は英語がぺらぺらになれるのに、と延期をすすめられました。出発前夜は地元のバーで大いに遊び、翌日腹を壊して帰国の途につきました。
「ジャーナリズムの仕事は、読むものの想像力をかきたてることである」と、以前参加したセミナーの講師が述べていました。本当にそう思います、淡々と事実を羅列するだけではなく、そこで読者が立ち止まり、何かを考えたり疑問視したりするようにすることこそが本来の仕事だと考えます。インドで感じたさまざまな感動や驚き、あるいは感傷というものは僕は単に述べるよりも問いかけてこそ意味のあることだと感じました。
最後の週、僕はボランティアのみんなとともに孤児院を訪れました。スマトラの大津波の犠牲者たちです。当然、親を失ったものも中にはいましたが、その多くは、津波のあとに貧困から親に見捨てられた子供たちでした。そして、彼らはそのことを理解していました。その子達が夕方、何もない孤児院の校庭で笑顔で遊びまわり、取材に訪れた僕らの袖を引っ張って写真や、一緒に遊んでくれとせがむ姿は忘れられません。
経験はどのような報道でも語りつくせません。ただ、その感動や悲劇をできるだけ保ったまま、読み手のもとに届けることは可能であり、また、そのような記者になりたいと僕は思います。

